プロフィール

プロフィール

 

はじめまして、ヒロインコミックの小川ゆきこと申します。

10年ほどマンガ家として活動していました。

ある思いから、【ヒロイン診断】を始めるにことになりました。

その経緯について語ってみたいと思います。

 

キャラクターが友達

わたしは、名古屋市昭和区の生まれ。

少し変わり者でおもしろい父、

パッチワークが得意で、センスのよい母

面倒見のよい野球少年の兄、

気が利くかわいい妹

マンガ大好きで野生児のわたし、

の5人家族で育ちました。

 

父が頑張って作った庭の砂場に、水を入れ

ドロドロにしたり、

粘土あそびに夢中になったり、

なんとなくいつも手足を汚して遊んでいました。

 

お話を作ることも大好きで、

当時珍しかった声を録音できるラジカセで、

自作の演劇を妹と録音して遊んでいました。

そして、小学3年生の時描いた、キツネのキャラクター「コンコン」が

毎日小学生新聞に掲載され、一つの決意をする。

マンガ家になる!!

調子にのったわたしは、その後、毎日小学生新聞に4コママンガを投稿、掲載。

妹の友達をモデルに渾身のギャグマンガ、「さわこちゃんの日記」を(自主的に)連載。

マンガ家になりたい。ではなく、マンガ家になると決めつけていました。

中学時代は、頭の中が全部マンガになり、「エスパー魔美」のマネをし、テレキネシスの特訓をしていました。

歴史ホラーマンガにハマり、神社で写真を撮りまくって、妄想。

中二病全開でした。

 

天才少女現る・・・!?

高校生になり、本格的なマンガの投稿を始めました。

りぼん、なかよし、少女マンガ家を目指す。

学校では、授業中にネタを考え、家では原稿を描く。

「天才少女現る!鮮烈デビュー!!」を夢みていました。

結果は・・・

賞を取ることもなく、Aクラス・・・凡人でした。

現実を知り、「マンガの才能はない?」と落胆しつつ、マンガは描きたくて投稿し続けました。

 

本気で燃えて

大学生の頃、やっと小さな賞をもらえるようになっていました。

学生デビューを夢見ていましたが、それも叶うことはなく、製版会社に就職しました。

そして、マンガ家さんのアシスタントをし始め、プロの現場の厳しさを知る。

アマチュアとプロの違いを知ったことで、ますます投稿に情熱を燃やしました。

東京の出版社まで持ち込み、編集者のアドバイスを貰う。

同人活動も始めて、ますますマンガにハマって行きました。

24歳でやっと担当編集者が付き、デビュー直前の賞をもらう。

これでもうプロ・・・・!?

人生はすんなりいかないもので、ここで逆風が吹き荒れることになりました。

 

人生の迷い道

このまま、マンガ家デビューだぜ!!と

はりきっていたちょうどその頃、勤めていた会社を辞めることになる。

職場での人間関係がこじれ、メンタルをやられてしまう。

このあたりから横道にそれ始めました。

夜な夜な飲み歩く日々、

将来の目標にあふれるキャラを演じてユニクロでバイトをしたり、

体育会系なふりをし、野球場でお弁当を売り、挫折したり、

出会い系チャットのサクラのバイトをしたり・・・

完全に人生の迷い道にいました。

マンガの存在はすっかり忘れ、本当にやりたいことってなんだろう?と

いろいろやってみました。

 

あきらめたところから始まる

気が付くと26歳、少女マンガを描くには歳をとりすぎていました。

夢はすっかり消え去ったことに気が付き、少女マンガ家をあきらめる時が来たとさとりました。

 

さて、なにをして生きたらいいんだろう?

バイトをいくらしても満足できない自分がいました。

そのとき、すでに少女マンガ家としてデビューしていた友達から一つの雑誌を渡されました。

今まで読んだことのないマイナーな雑誌。

「ここで一緒に描かない?」

今まで、なかよし、りぼん、のような大手出版社の存在しか頭になかったところに、

価値観が一変しました。

雑誌というものはいろんなものがある!

マンガ家になれるのなら、こだわらない。なんとしてもプロになる!

改めて決心したわたしは、その雑誌に作品を送り、

ついにマンガ家としてデビューしました。

夢が叶った瞬間でした。

 

大切な人が

連載をもらい、単行本を何冊か出し、マンガの仕事は順調でした。

マンガを描く毎日は、大変でしたが、楽しく、充実していました。

そんなある日、一本の知らせが届く、

それは妹から。

妹は結婚し幸せに暮らしていた・・・はずでした。

検査の結果、乳がん。「ステージ2b、5年生存率70%」

あ、妹は死ぬんだ。

 

妹の声を聞きながら、世界が細長いトンネルのように縮むのを感じていました。

・・・・・・・・・

夢を叶え、充実していた毎日は、簡単に灰色に染まり、ガラガラと崩れ落ちたのでした。

 

最初の知らせが3月、ここから3か月ほどは、ガンかどうか言われないとわからないほどに、妹はごく普通に、治療しながら仕事に通い、元気に暮らしていました。

4か月ほどたった7月、具合が悪くなってきた妹に頼まれ、わたしは家事と看病のため、

妹の家に通う。